石川俊男(H3当時27才)の場合 |
現在、万町商店街で「しまばら水屋敷」を営む。 万町商店街青年部長、このHPの管理者。 災害時は、一番街アーケードの「とみや呉服店」の後継ぎの立場でしたが 災害がきっかけで、思うところがあり、平成7年に実家の呉服店を退職し、「水屋敷」を始める。 |
災害体験の経緯 |
平成2年の年末に、普賢岳から白煙が上がりはじめましたが、 危機感はまったくなく、のんきに考えてました。 平成3年の5月ころ、梅雨に入り、土石流の心配が出てきましたが、 市内の商店街は普賢岳とは離れていて、心配はそうありませんでした。 6月3日 私は仕事で長崎市へ行っていて 夕方、車で帰ってきていた時、ラジオで火砕流で被害者が出たことを知り、 降灰で真っ暗な中、急いで家へ帰りました。 最初の1ヶ月は、毎日のように灰が降り、日中でも真っ暗で、いろんな情報が飛び交い、 「命の心配」が最優先でした。 故郷の島原を捨てて、隣町の諫早市に移り、 在庫商品を叩き売って、生活の糧にしようとも考えましたし、 もう、島原はダメだな!とあきらめかけたりもしました。 しかし、 8月のはじめに、毎年夏に開催している「土曜夜市」を一度だけやってみよう!と 商店街の仲間で「元気市」として小規模な縁日を手作りで行ってみたら、 ゴーストタウンと化した町に、たくさんの子ども達や直接被災住民の方々や島原市民が 集まり、賑わった事がきっかけで 「どうにかがんばれば乗り切れるぞ!」と思うようになりました。 最初の一年は、自分の事で精一杯でした。 二年目から、いろんなまちづくり講演会や勉強会などに顔を出すようになり、 三年目から、客観的に地元を見れるようになり、 四年目ころから、降灰があまりおこらないようになったので積極的に動くようになり、 考えを行動に移すため両親を説得し続け、 平成7年5月で実家を退職し、8月に「しまばら水屋敷」をはじめました。 |
災害で学んだ事 |
私個人は、「腹をくくる事」を学びました。 正直、「死」を意識せざるをえない状況もありましたから、 「明日、自分が死んだとして、自分の人生に悔いが残るのか?」と、今でも自問自答しています。 「行動を伴わない議論は、無意味だ!」とも気づきましたネ。 長期災害だったので充分時間がありました。 そのなかで、いろんな話し合いや議論がありましたが、 「行動の伴わない議論はただの時間つぶしだ」ということがわかりました。 |
噴火災害関係者へ |
長期になる可能性が大きいようなので、腰を据えて、腹をくくって、 |
被災中の記憶 |